Live-Evil
Miles Davis · 1971 · Columbia
参加ミュージシャン
Keith Jarrett
このアルバムでピアノ / キーボードを演奏
1970年12月のCellar Doorでの録音で、Jarrettはロードスとコンテンポのエレクトリックピアノとオルガンを同時に演奏した。エレクトリック楽器を嫌うことで知られる彼が、このバンドでは徹底してそれを担った。
Steve Grossman準備中
このアルバムでサックスを演奏
Michael Henderson準備中
このアルバムでコントラバスを演奏
Hermeto Pascoal準備中
このアルバムでエレクトリックピアノを演奏
Keith JarrettKeith Jarrettキース・ジャレットはLive-Evil
Live-EvilMiles Davis · 1971のCellar Doorセッション(1970年12月)で、ローズとオルガンを同時に弾いた。のちにエレクトリック楽器を頑なに拒否することで知られるJarrettが、このバンドでは徹底してそれを担った。Miles Davisの下では「嫌い」は通用しなかった。
『ビッチェズ・ブリュー』(1970)でマイルス・デイヴィスのエレクトリック路線が頂点に達したその時期に、リズム隊のチック・コリアとデイヴ・ホランドは、空き時間に始めたトリオを本業にしてバンドを去った。行き先は売れ線のフュージョンではなく、無調寄りの自由な即興集団サークルだった。
電話はハービー本人ではなくトニー・ウィリアムスから。1968年、ボルチモアでの代役依頼だった。チック・コリアがマイルス・デイヴィス楽団の鍵盤に座ったのは、ハービー・ハンコックが来られない一夜の穴埋めとして始まった。その代役がやがて電化マイルスの中心になる。
ビッチェズ・ブリューの低音を弾いたデイヴ・ホランドとチック・コリアは、絶頂のマイルス・デイヴィス楽団を自ら降りた。『マイルスがリズムで別の方向へ行きたがっているのが二人には見えた』——袂を分かった先は電化ではなく、フリー寄りのグループ、サークルだった。
まだ無名の若きベーシスト、スタンリー・クラークに自分の曲を弾いてほしい——チック・コリアはそこから始めた。何人ものドラマーを試した末に行き着いたのは、打楽器奏者アイアート・モレイラ。こうして偶然のように組み上がった顔ぶれが、リターン・トゥ・フォーエヴァーの最初の形になった。1972年、クラークを世に出した一枚でもある。
のちに世界一録音されたベーシストになるロン・カーターは、イーストマン音楽学校の学生だった頃、1950年式フォードを持っていた。ロチェスターでの公演後、駅までの足がなかったマイルス・デイヴィス、レッド・ガーランド、そしてポール・チェンバースを車に詰め込んで送り届けた。名手が、車を持つ学生だった夜の話。
1969年、マイルスはスケッチとベースのパターンだけを持って『Bitches Brew』のセッションに現れた。譜面で固めるのではなく、その場でテンポを出し、違えば『それじゃない』と止めて別を試させる。あの複雑な音塊は、書かれた曲ではなくスタジオで即興的に方向づけられて生まれた。ドラムのジャック・ディジョネットが証言している。
エイルト・モレイラは1970年、マイルス・デイヴィスの『ビッチェズ・ブリュー』でポリリズムのパーカッションを刻む一方、同じ年に発表されたフォーク・ポップの静かな名盤にも名を連ねている。前衛的なフュージョンの現場と、ギターと歌だけの穏やかな世界を同時に往復していた。
デイヴ・ホランドとジャック・ディジョネットが初めて音を出したのは、1967年ロンドンのジャムセッションだった。ホランドは「最初の一拍から完璧だと感じた」と振り返る。1970年の『Bitches Brew』のクレジットに並ぶ二人は、ニューヨークで引き合わされたのではなく、その三年前のロンドンの夜にもう噛み合っていた。
1970年代初頭、マイルス・デイヴィスの電化バンドでドラムを叩いたジャック・デジョネットは、チック・コリアとデイヴ・ホランドの即興は「とことん熱狂的な場所まで行ってしまう」と語った。だがマイルスが演奏に戻ってくると、その混沌は一つにまとまり中心へと戻るという。自由に暴れて見えるバンドの本当の重心は、マイルス自身だった。
ドン・アライアスは1970年の『Bitches Brew』にパーカッション要員として呼ばれたが、"Miles Runs the Voodoo Down" ではドラムセットに座っている。あのニューオーリンズ風のビートは彼のアイデアで、リーダーにそのまま叩けと言われたからだ。
マイルス・デイヴィスの Live-Evil(1971)でチック・コリアが弾いているのは、歪ませた電気ピアノの轟音だ。翌年の Return to Forever では、同じ人が同じ楽器でブラジル風の明るい曲を軽く鳴らしている。難解な方向から客に届く音楽へ本人が意識して舵を切った結果で、落差はわずか1年ぶんしかない。
1969年2月、ジョン・マクラフリンは渡米したばかりで、ニューヨークの現場を何も知らなかった。その月のうちに In a Silent Way のセッションに呼ばれ、ギターを弾いたことがない人間のように弾いてくれ、と注文される。翌年の Bitches Brew では、彼の名前がそのまま曲名になっている。
Live-Evil(1971年)の電化フュージョン現場や、1966年のハードバップ職人としても鳴らしたアルト奏者ゲイリー・バーツは、1997年、当時まだ20代だったロイ・ハーグローヴが率いるアフロキューバン編成『Habana』に加わりチュチョ・バルデスと共演、グラミーを獲った。2025年も自身名義の新作を出し続けている。
一方その頃(1971年前後)