Wynton Marsalis
Wynton Marsalis · 1982 · Columbia
参加ミュージシャン
ハーグでのWynton MarsalisWynton MarsalisWynton Marsalis · 1982 Septetによるフル・コンサート。アルバム『In This House, On This Morning』時期の演奏。NPS Dutch TV収録。
1982年、弟ウィントンが自分のバンドを組もうと『誰か知ってるか』と聞いた。ブランフォードの答えは、ケニー・カークランドに電話しろ、ドラムはジェフ・"テイン"・ワッツだ、だった。ワッツは当時バークリーの無名の学生。この一言が、80年代ウィントン・カルテットのリズム隊を丸ごと決め、二人の名を世に押し出した。
ケニー・カークランドが1998年に急逝すると、ある記者がブランフォード・マルサリスに『今こそウィントンのバンドを再評価したい』と言った。生前は小さな活字の中の名前でしかなかったピアニスト。死んでからしか見えないのか、とブランフォードは突き放した。
1963年、マイルス・デイヴィスは新クインテットのドラマーに17歳のトニー・ウィリアムズを起用した。ベーシストのロン・カーターは、誰もドラムで不可能だと思っていたリズムの世界を彼が切り開いていった、と振り返っている。
1981年の『Album of the Year』でArt Blakeyのバンドに加わったサックス奏者は、まだ無名だった20歳のBranford Marsalisである。後年知られる「マルサリス一族」の名声はこの時点では存在せず、Blakeyのバンドを経てキャリアが始まったのが実際の順序だった。
1985年のウィントン・マルサリス『Black Codes』は緻密なユニゾンで知られるが、共演したブランフォード・マルサリスは後年、当時のクインテットについて「そもそも俺たちは練習しなかった。本当に練習していたのはウィントンだけだ」と語った。緊密な演奏の裏で、バンドとしての合わせ練習はほとんど無かった。
1984年、若きスターとして脚光を浴びていたウィントン・マルサリスは、自分のクインテットについて「俺は自分のバンドが大好きだ」と語りながら、ピアノのケニー・カークランドとドラムのジェフ・"テイン"・ワッツを「シーンで最高の若手なのに、まったく評価されていない」と評した。目立っていたのはリーダーの方で、二人はまだ無名だった。
ウィントン・マルサリスは1980年代前半、自身のクインテットについてこう語った。曲の形を決めるのはリーダーではない。ケニー・カークランドが弾いたコードがそのまま曲のコードになり、ジェフ・"テイン"・ワッツが叩いたビートがそのまま曲の拍子になる、と。
鍵盤のケニー・カークランドは、1985年の Black Codes (From the Underground) をはじめ多くの現場で弾いたが、自分名義の作品は1991年の Kenny Kirkland 一枚きりで終わった。その一枚でドラムを叩いたのは、Black Codes でも隣にいたジェフ・「テイン」・ワッツだった。
1981年、アート・ブレイキーのジャズ・メッセンジャーズでベースを弾いていたチャールズ・ファンブラーの隣には、まだ無名だった10代のトランペッター、ウィントン・マルサリスがいた。『Album Of The Year』『Keystone 3』を経て、ファンブラーはマルサリス自身の初リーダー作にも呼ばれている。
登場するNote
一方その頃(1982年前後)